圓乘院について

所在地 埼玉県さいたま市中央区本町西1-13-10
最寄駅 JR京浜東北線「与野」駅より西方1.6km
JR埼京線「与野本町」駅より西方 徒歩7分
受付時間 開門 午前7時 閉門 午後5時
メール e-mail enjyoin*yahoo.co.jp
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宗  派真言宗智山派
本  尊五大明王
本  山京都東山七条 「智積院」
千代桜 4月初め頃



圓乘院沿革

当院は、安養山西念寺圓乘院と号し、建久年間(1190〜1199)畠山重忠によって、道場村(今は浦和市の一部)に創建されたものであるが、慶長年間(1596〜1615)に当地に移建したと伝える。中興の僧賢明上人は元和5年(1619)に没し、当院に葬られた。これより先、慶長19年(1614)、徳川二代将軍秀忠公の時、道場村に寺領15石の御朱印状を受け、その後代々変わることなく明治4年まで続いた。

当院は延宝6年(1678)5月16日、京都仁和寺の直末寺となり、寛延2年(1749)11月談林格に昇格して、当地方新義真言宗の重鎮となった。幕末与野領23ヶ町村の中に、寺院が38ヶ所あったが、そのうち23ヶ寺は圓乘院末寺であった。数度にわたり当院は火災に見舞われ、その昔八代将軍吉宗公がまだ紀伊の殿様であった時にお泊まりになられた紀伊屋敷を初めとして、由緒深い堂宇・古記録・宝物等多数を焼失して一時は苦難の時代もあったが、新義真言の法灯は、いささかも揺らぐことなく今日の隆盛を来している。

圓乘院にまつわる伝説

  • 送り地蔵
  • ある日、与野に住んでいた侍が、中山道大宮宿へ出かけ、酒を飲んでしたたかに酔いつぶれ、淋しい夜道を歩いて大宮と与野の境目を通り過ぎ、上落合の雑木林にさしかかった。

    その時、誰かが後ろから後を付けてくる足跡がするので、振り返ってみたが誰もいない。こうしたことを何回か繰り返しているうちに、とうとう薄気味悪くなった侍は、とっさに刀を抜いて、後ろの何者かをめがけて斬りつけた。確かに手応えはあったように思えたが、そこにはただ静まり返った暗闇があるだけで、何も見あたらなかった。酔いがすっかり醒めた侍は、そのままわが家へ急いで帰りついた。

    翌朝、目をさました侍は、昨夜の不思議なできごとを思い出し、さっそく事件のあった現場へ出かけてみた。すると、そこにはしたたるような鮮血が一面に広がり、血が道の上に点々と続いていたのである。その跡をたどっていくと、小村田の地蔵堂の前でピタリと止まっているではないか。これを見た侍は、このお地蔵さまが酒に酔っている自分のことを心配して、無事に家に帰れるように見守っていてくれたことにようやく気づき、お地蔵さまの前にひれ伏して、ひたすらにお詫びしたということである。このことがあってからお地蔵さまの功徳が一層知れ渡り、「送り地蔵」とよばれるようになったということである。