浄土宗 東日山 西光寺(東京都墨田区)小史


 當寺は法然上人を開祖とする浄土宗に所属し、正しくは東日山正明院西光寺という。寺名の西光寺は全国的にも数多く使われ、都内だけでも二十数ヶ寺余り存在する。そのため、両国駅利用の便宜上、一般に両国の西光寺と呼ばれる。
 両国という名称は、隅田川の東の下総国、西の武蔵国の両方の国を結ぶ橋として架けられた両国橋(1660)に由来する。また明治時代に開通した国電の駅名に使われ、国技館を有する相撲の町としても古くから親しまれた地名である。當寺の所在する墨田区千歳はこの両国に隣接し、古くは御船蔵、本所深川地区として知られ、近くに、津軽大名屋敷、吉良邸、塩原太助住居、松尾芭蕉庵、江島杉山神社等多くの史跡に囲まれた土地である。
 西光寺の創建は、その両国橋誕生より半世紀以上も遡る。当時下総国葛飾郡海辺新地と呼ばれていたこの土地で開拓と海苔の製造に従事していた小林冶郎右衛門 が、慶長十一年(1606)増上寺の信誉英松和尚を開山上人に迎えて當寺を創建した。慶長八年、江戸幕府を開いた徳川家康が江戸城本丸御殿を建立したのが當寺開山と同じ慶長十一年の事であり、ほぼ江戸の誕生と同時に當寺が始まった事になる。
 開基小林国廣は大阪四天王寺村出身の武士であったが、戦乱の世を嫌ってこの地に来て浅草海苔製造に従事した。開拓の苦労とその努力が実を結び、小林海苔干場として近隣の人々に知れわたるまでになった。生来国廣は信仰心篤く、増上寺英松和尚について念仏に励んでいたが、遂に宿願かない開拓地の二反余りを選んで當寺創建にこぎつけた。その後、大阪合戦で長男が討死した事を知り、自らも得度して休西(妻は妙西)の道号を頂き、浄業を修めた。
 開山上人英松和尚は今川義元の家臣鈴木彦兵衛の長男で、幼児より学問を好んだ。桶狭間の合戦で父の彦兵衛が義元と共に討死したため、十九歳の時に三河大樹寺の隣誉底鈍和尚について得度受戒した。その後増上寺に移り益々仏道を極め、七十歳にして西光寺開山上人として迎えられた。高僧の誉れ高く、念仏布教に精進されつつも、寛永二十年(1643)百八歳の長寿をもって大往生された。
 檀家の始まりは寛永五年、日本橋の半田家が最初と記録されている。以来多くの檀家に支えられ発展し、一時は寺子屋の開設など地域の教育にも関与してきたが、特に當寺が広く知られるようになったのは渡辺海旭第十六世和尚が法灯を継がれた事による。

 海旭和尚は明治五年浅草に生まれ、十四歳の時瑞山海定十五世住職について得度し、専ら学問に専念し、明治三十三年(1900)から十年間ドイツに留学した。ドイツでは当時の仏教学研究の第一人者、シュトラスブルグ大学のロイマン教授のもとで研鑽を積み、数多くの論文を発表し、ドクトルフィロソフィーの学位を得た。帰国後、芝学園の校長に迎えられ、大正大学の創設と共に理事長兼教授に就任した。海旭和尚の特筆すべき偉業は、親友の高楠順次郎博士(東京大学初代梵文学教授、武蔵野女子大創設者)と共に大正新脩大蔵経(全百巻)を監修発行したことである。この大蔵経は漢訳仏典の集大成として今日においても世界中で尊重されている。
 海旭和尚は仏教界ばかりでなく社会事業の先駆者としても有名で、深川に労働者救済会館を設けた他、淑徳大学創設の長谷川良信学長を始め数多くの関係者や弟子を養成した。また徳富蘇峰、頭山満、下村寿一、三島海雲、相馬愛蔵・黒光夫妻等、当時を代表する名士との交友も深く、カルピスの命名や、新宿中村屋のカリーライスの誕生にも深い関わりをもつ。昭和八年、六十一歳で往生されたが、遺言によりその遺体は東京大学の足立博士の研究に献体された。

 その後當寺は海旭和尚の縁者に当る、赤尾光雄、武田泰淳、渡辺泰城和尚等を経て、昭和四十一年より現住職となった。
 当地は水難、震災、戦災等の大きな災禍に度々遭遇し、重ねて戦争による寺族の不幸も重なり永いこと不自由な状態であったが、戦後五十年、開山四百年を記して、壇信徒各位の熱心な総意支援のもとに平成八年春、新本堂の落慶をみるに至った。
 當寺の墓地には刀匠水心子正秀、製薬の玉置金八翁、落語の古今亭今輔(二代目)、講談の一龍斉貞丈(先々代)、歌舞伎の沢村 ・宗之助・昇之助、俳優の伊藤雄之助、相撲の大関栃光等多くの人が眠る。<終わり>