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勝覚寺縁起

正しくは萬徳山聚樂院勝覺寺と号し、現在では眞言宗智山派に属しています。
古い寺伝によれば、創建は天暦元年(947)とありますが、その開基はよく分かっていません。

嘉暦元年(1326)には、平常直が上堺村屋形(現横芝町屋形)に政庁を置きました。その後代の平高望が修繕をした記録があります。また、その後火災に あって焼失したのを、明応九年(1500)十一月に当時の住職の長覺が再興しました。即ち長覺和尚は中興開山の祖になります。

また天正十九(1591)年 には原胤安、同胤房が堂宇補修を行った記録も残っています。
最盛期は七堂伽藍を整え住僧も多かったようですが、度重なる火災などにより、現存している堂宇 は釈迦堂と鐘楼堂のみとなってしまいました。
当初は後村上天皇の勅願寺院として建立された、という伝承もあります。また、江戸時代になってからは慶安二年(1649)に三代将軍家光公より、十石二斗の寺領を拝領しています。

現在の釈迦堂は元禄8年(1695)、覚眼の時に建立されました。覚眼は荻生徂徠が青年時代をこの地で過ごした時「四書大全」を貸し与えて勉学の師となりました。

釈迦堂には本尊の釈迦如来を守護するように、四天王像が安置されています。
この寺の通称「してんさま」はそれに由来するものです。

御詠歌

音に聞く 黒戸の浜の四天王 釈迦に棚引く 紫の雲

四天王伝説

この地にこのような巨大で良作の四天王が四体揃って伝来している事が、勝覚寺にとっても地域にとっても一番の宝であり、また謎でもあります。

そもそも当山の本尊釈迦如来像は、天竺の伝説の大仏師毘首羯磨(びしゅかつま)が、謹刻した三体の内の一体で、大同元年(806)に弘法大師空海が密教を入唐求法し、帰朝の折に請来したと伝えられています。 その像は五寸七分(約17cm)と伝えられ、その後、勝覚寺の本尊として奉られるようになりました。

鎌倉時代、武士の時代になって世が荒れる中、大仏師運慶は国家安穏・護国鎮守を祈念して、身の丈七尺に及ぶ四天王像を彫り上げて、龍宮に住む龍神に捧げる為に海中に流しました。 しかしながら、龍宮には届かずに、三浦半島、房総半島を廻り九十九里浜のとある地に流れ着きました。そこを現在では「四天木(してぎ)」(現大網白里町といいます。その昔は四天王が流れ寄ったので、四天寄と表記していました。

漂着した四天王は、松ヶ谷村の勝覚寺の釈迦如来を守るため運んで欲しい、と漁民に伝えた。 人力で運ぶしかありませんが、隣村まで運んだは良いものの、あまりの重さに皆の顔が青ざめたので、そこを「粟生(あお)」(現九十九里町)と言います。
さらに、担いで運び、途中で休息を取り、担ぐ肩を左右入れ替えました。肩を替えたので肩替え、その場所が「片貝」と呼ばれるようになった。 道を進んで川にぶつかり、勝覚寺を尋ねた所、「まだ先だ」と言われたのが、今の「作田(さくだ)」(現九十九里町)。
さらに道中を進んだが、中途で戻すか戻さぬか相談思案をした所が今では「本須賀(もとすか)」(現山武市)。
命からがら担いで来たのが、今の「井之内(いのうち)」(現山武市)、明日は寺に着くから今夜は宿を取ろうと休んだのが、「宿(しゅく)」(現山武市)
あろうことか、翌日勝覚寺を通り過ぎ、川(現木戸川)まで出てきてしまった。「困った困った」と頭を抱えたのが、「小松(こまつ)」(現山武市)
川の向こうは「折戸(おりと)」(現山武市) 取って帰して、勝覚寺に辿り着き、「おっと困った、間違えた」(折戸、小松、松ヶ谷)と言ったとか言わなかったとか・・・。 という地元の地名にまつわる伝説が残されています。

その後、運慶がその話を伝え聞き、「毘首羯磨御作の釈迦如来様の所に、私の彫った四天王が奉られるとは素晴らしいことだ。しかし、五寸七分の釈迦如来像と、七尺の四天王では釣り合いが取れない。私が半丈六の御前立ちの釈迦如来像を造ろう」と言い、納められたのが今の釈迦如来坐像と伝えられています。

さて、その四天王は、

  • 持国天(東方守護) 2.13m
  • 増長天(南方守護) 2.03m
  • 広目天(西方守護) 2.07m
  • 多聞天(北方守護) 2.07m

各々2メートルを越す巨像で、堂々とした体躯を誇っています。 そして、その迫力あるお姿は参詣する者を圧倒し、800年間の永きに渡り、本尊の釈迦如来を護持し、信心の善男善女を守護して下さいます。

四天王と四方守護

ある時、お釈迦様は四天王に言いました。
「私が涅槃となった後も、本当の教えを守護しなさい。未来に三人の悪い王が現れるだろう。お前達がみんなで力を合わせ法を護りなさい。」
その後お釈迦様の亡くなった後、帝釈天と四天王はお香や華、音楽や踊りでお釈迦様の舍利を供養しました。そして、
「お釈迦様は我々に法の守護を託して涅槃に入られた。今、我々はその為に法を守護する。」
と帝釈天が言いました。そしてまた、
「持国天よ、お前は東方において佛法を守護せよ。」
「増長天よ、お前は南方において佛法を守護せよ。」
「広目天よ、お前は西方において佛法を守護せよ。」
「多聞天よ、お前は北方において佛法を守護せよ。お釈迦様は私が涅槃に入った後三人の悪王が出現するとおっしゃられた。もし、その王が佛法を壊するようなことがあれば、佛法を擁護せよ。」
と言いました。
これで四天王が東南西北の四方の佛法守護神となったのです。

〜「阿育王経巻第六」より訳出〜

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