松本山 法身院 正覚寺 について


略縁起


 当寺に伝わる寺歴によると、往昔は(高野山)真言宗であったが(平安末期)、正長元年(1428年)相模国日野郷の領主荒井若狭守の家臣高梨林右衛門が、浄土宗に改めて、開基となった古刹であって、開山載蓮社運誉正阿覚冏(正長元年七月十六日寂)で、寺号は開山の法名から、山号は村名(松本村)によったものである。

 当地に千年近く続く。伝えによるとこの寺は、笹下城の出城松本城の跡地であり、間宮氏権現堂の戦いで死傷者を多数出して、権現堂を焼失し、その供養に浄土宗第七祖聖冏の門下覚冏が建てた寺という。この地は相模と武蔵の国境にあたるのである。

 往古、総門に近く、巨大な松の老樹があって、ちょうど村の中央に位置していたので、村人の集合は、老松樹の上から法螺貝を吹いて松の根方に集まり、寄り合いを開いたので、「松本」の地名が生まれ、山号にしたと古老の伝承があるが、『新編武蔵風土記稿』の「松本村」の項にも「土人村内正覚寺の傍に老樹一株たてり、是村名の起る所にして其木を松本の松と呼べりと、」とある。

 当寺は、いつの頃か火災に罹り、過去帳・旧記の伝えを失い、正しい沿革を知ることができない。が、江戸中期以前は、金山寺・来迎寺・勢至庵・光明寺・浄岸寺・報身寺・正応寺の末寺七ヵ寺を有し、前四ヵ寺は明治維新の際廃寺となり、浄岸寺は宗教法人法改正を機に当寺に併合、報身寺は護念寺(峰の灸で今でも有名)に統合された。現在、来光寺・正応寺の末寺二ヵ寺がある。

 報身寺は吉原山一心院と号し、開山は正覚寺と同じ、運誉覚冏。浄岸寺は金井山、開山東蓮社一誉長徹(延宝八年八月六日寂)で、安永四年生まれで日野の人。名主職をつとめる高梨林右衛門が、境内地を寄進して、金井谷から移建したもので、共に日野にあった。

 『新編武蔵風土記稿』には「門を入り石階五十三級を登りて本堂の前に至り」とあって、往昔、参道入口に総門があったと思われ、現在は石段に至るあいだは、駐車場になり、石段は六十六級で山門に達する。

 ちなみに五十三という数字は、菩薩の階位を表す華厳の教えである。最高位に到達すると、成仏するという訳である。最近は車で裏から参詣される方が多いが、階段を一歩一歩登ってお参りするのはそれだけの甲斐があるというものである。