双盤について


双 盤
 当寺の「双盤」は、

昭和52年「かながわ民俗芸能50選」に選ばれ、
53年には更に横浜市無形民俗文化財の指定を受けた。

 当寺に伝わる双盤の、平鉦には正徳3年 (1713)、雲板には寛政7年 (1795) の銘の刻印からも300年近い伝統が連綿として引き継がれている証しとなっている訳である。

 この「双盤」は、浄土宗寺院で十夜法という回向を行う時、引声念仏を唱えるための伴奏として使われる打楽器である。
 太鼓一人・平鉦4人が組になり、太鼓打ちが音頭を取り、鉦張り4人と共に調子を合わせて「引声念仏」を合唱する演技である。



 十夜法要とは、御仏や御先祖に秋の穣を供え、報恩感謝を表す法事である。十夜法要の起源は古く、伝えでは浄土宗の大本山光明寺(鎌倉材木座)に端を発している。御土御門天皇の明応4年(1495)天皇の勅許によって始められた。浄土宗独自の法要である。

 「引声」とは、お経や念仏の「ナムアミダブツ」に長い節をつけて唱える方法で、音調は木遣節に似ている。なるべく音声を伸ばして唱えるのが骨だと言われている。



当寺の双盤について

 当寺の先代(第37世)は双盤行事を次のように述べていたのを思い出す。

 「比叡山延暦寺第3代慈覚大師が入唐の折り、五台山法道和尚から伝授され、我が国に伝えられた。引声念仏は唐時代の発音のため極めて難解なものである。引声は中国五台山を洗う浪音をリズム化したものだと言われている。」
 「昔、正覚寺の檀徒は青年に達すると、この鉦講中に入り、特に第16世代に至ると(正徳年間:1710〜)久良岐郡随一の講中となり、当時舞岡(戸塚宿)の師匠のリードがあったためか、和泉・中田・舞岡・深谷(共に戸塚宿)などからも大勢の若衆が集まり、その腕を競い合ったという。
 その頃の正覚寺の十夜法要は二夜三日(ニャサンニチ)行われ、夜の雑魚寝や丁半を楽しんだようであるが、良畑のないこの地域では、菜ゲンチンという、菜っ葉・豆腐・油揚げの名物を出すのが伝統で、夜になると、昼間の握り飯を、この汁にまぜて、オジヤ(お十夜)を作って寒さをしのいだという言い伝えになっている。」
 この菜ゲンチンは、現在でも当寺の名物になっている。

 因みにケンチン汁は当時の建長寺の托鉢僧がこの辺りまでやってきた。建長寺汁が、ケンチン汁になまったという?里芋・牛蒡・人参等の煮汁である。

 当寺の双盤は第二次世界大戦中、一時中断されたが、十夜法要の器物ということで戦時供出から免れて現在の盛況に至っている。末寺の浄岸寺(廃寺)は一時は夜店が30件も出たほど盛況であったが、鉦を戦時供出した後、廃れてしまった。

  当寺の双盤行事を代々受け継いだ長老連に、若かりし頃を伺ったところ

 「昭和初期の最盛期には松本鉦講中の仲間は30名ほどいた。明治時代には朝から翌朝まで続けられたと聞く。近郷の講中が集まり、初心者は、朝のうちでないと演技に出して貰えなかった。食事は煮しめや握り飯を松本講中が持ち寄った。一斗甕の焼酎が足りないほどだった。双盤は地域によっては引声念仏の唱え方が異なるため、交流のある講仲間でないと一緒にはやりにくい。」

  双盤の内容について伺った
 「掛念仏というが、演技には約40分かかる。その流れを分解すると、

 打込み(ブッコミ) 〜 座付 〜 二の座、掛念仏(山念仏、石童丸) 〜 玉入れ 〜 大間 〜 三っ山 〜 山道 〜 払鉦

の順に行う。始め太鼓が合図し、あくまで太鼓がリードする。平鉦は一番手から四番手まであり、音色の良いものの順になっていて、熟達者が先手を受け持つ習わしになっている。
 石童丸には、叡山で父に逢うくだりがおり込まれている。
 山念仏は「ナムアミダブツ」の念仏を長音にくずしているので葬儀の時、野辺の送りにも行った。」

 双盤そのもの自体は聴いて覚えるしかないが、中国伝来の伝統を引き継ぐ民俗芸能として異色を放っている。

 鎌倉材木座の大本山光明寺では10月12日〜15日まで十夜法要を営むが、昼過ぎの日中法要では盛大に挙行される。山門では双盤念仏が、大殿では引声念仏と鉦供養を聞くことができる。露店も多数出るので、お時間のある方は是非とも午前中から参詣されることをお薦めします。

 大本山光明寺 神奈川県鎌倉市材木座6−17−19